道端にひっそりと咲いている小さなお花にこころ奪われて足を止めてしまうことがあります。
彼らは、だぁれも見ていなくても、ただただ咲いています。
まわりに自分とは違うどんなお花が咲いていてもお構いなし(笑)。
小さくても、りんとたくましい姿で咲き誇っています。
その姿は、本当に可愛らしくて、本当に美しい。
自らの命を天に地に預けて、一途に光に向かって咲いています。
それって、私たちが心の底で求めている生き方なのかも。。。
それなのに。。。
人間はなかなかそれができないんだなぁ。
誰もがそのままで美しいのに、
ついつい他人と比べて自分を卑下してしまう。
自分なんてダメだ…。
あの人のようにはなれない…。
こんな自分なんて生きてても価値がない…。
そのこころの奥にあるのは何?
特別な存在でいたい。
認められたい。
なのにだれも認めてくれない。
自分は誰からも認められない。
あの人はいいなあ。
うらやましいなあ。
あの人みたいになれればしあわせなのになあ。
。。。ちょっと待ってね。
ほんとうにそうだろうか?
ほんとうにだれも認めてくれてない?
ほんとうにあの人にとってのしあわせ(自分にはそう見えている)が、自分にとってのしあわせ?
何がしあわせかは、ひとりひとりちがうんじゃないかな。
あの人からは、あなたの方がしあわせでうらやましい状況にいるように見えているかもしれないよ。
下を見るのはかんたんで。
そんな自分だって、落ちてる人がいたら、なぐさめたり、同情したりして、思い切り優しく接することができる。
なのに、その人が自分より上に行ってしまった(と感じる)とき。。。
手放しで心から喜ぶことができる?
喜びの気もち、うれしい気持ちはもちろんある。
けど、なんとなくさびしかったり、あせったり、落ち着かない気持ちも同時にあったりするかもね。
それは自分と相手とを比較する思考が働いてしまうから。
自分の方が上だったり、おんなじくらいと思えば安心できるのに。
まるで、まわりの人がしあわせになったら自分のしあわせが減ってしまうかのように感じてしまう。
本当は上や下なんてないってことも、
しあわせは分かち合うことでどんどん増幅していくものだっていうことも、
わかっているのにね。
その上や下をジャッジしてしまうのは。。。
自分と相手を見ている「もうひとつの目」を感じてしまうからだよね。
だれの目だろう?
両親、親戚、友だち、大好きなあの人、上司や先輩、後輩、まわりの人々、世間の目。。。
その目がなければ平気なのに。
ふたりだけの世界を切り取ったらあの人のことも素直に思い切り祝福できるのに。
「いまこの私」のままで。
私はもっと何かができなければならない。
私はもっと美しくならなければならない。
いま以上の私にならなければ価値がない。
そう思い続けてしまうと、とってもキツイね〜。
もちろん、自分を磨くことは素晴らしいこと。
だけど、自分を認めることができないままだとキツイよね。
「いまこの私」。
ここから出発するしかないのに。
「いまこの私」。
これを自分自身が認めてあげたらそれだけでいいのに。
私は私。
それ以上でもないし、それ以下でもない。
比べるものがなければこの私は最高だよね。
自分を認めてくれる人。。。
それをまだ他人に求める?
誰かに認められていれば安心できるっていう人生。
それだといつまでも心休まるときがないよ。
他人の目によって一喜一憂してしまう苦しい状態はずーっと続く。
これからは。。。
自分を認めるのは、
自分自身だよね。
いままでの「ダメな自分」も、
自分のことをダメな自分と思い込んでなかなかその渦を抜け出せず堂々巡りをしていた自分も、
全部ひっくるめてね。
自分自身が、この私を育てていく。
時には応援して励まして、
時にはひたすら見守って。。。
すべては「いまこの私」から始まるんだよ。
それにね、
私たちはひとりぼっちに見えて実はひとりぼっちじゃない。
目に見える存在、
目に見えない存在、
この私をサポートし見守り続けてくれている存在たちがまわりにたくさんいるんだよ。
くるしいときも
かなしいときも
つらいときも
いつでも変わらず見守ってくれている存在がいる。
あなたが意識しようとしていまいと。
どんなときだって。
だから。。。
だいじょうぶ。
そんな自分を信じて。
自分の内側に耳を傾けて、
こころの声に従って歩いていこう。
私たちは、持って生まれたそれぞれの美しさをそのまま輝かせていけばいいだけ。
そのためにこの世に生まれてきたんだから。
他人の目を気にして自分をぺったんこにしてしまったらもったいない!
この道端に咲くお花のように
あなたはオンリーワンの自分をただひたすら輝かせればいいんだよ。
ただそれだけだよ。